新着記事タイトル


記事内容

ちょこっと散歩 「谷根千界隈と弥生」

ギター仙人

 お天気もよく暖かいお出かけ日和の先日、谷根千の街を歩いてきました。「谷根千」というのは谷中・根津・千駄木の略で、たしかこの街のタウン誌の名前だったと思います。今回は、それに文京区弥生まで足を伸ばそうと思っています。
 京浜東北線を日暮里駅で山の手側に降ります。まっすぐ行けば「夕やけだんだん」で、その先は谷中銀座ですが、左の道に折れます。すると、駅からわずか5分ほどのところにあるのが、「朝倉彫塑館」です。まず、ここに行くのが今日の目的の一つです。

<朝倉彫塑館>
 朝倉彫塑館は、彫刻家朝倉文夫の住居兼アトリエでした。朝倉文夫は、明治16年大分県生まれです。上京して東京美術学校で学んだのち、明治40年にここに住居とアトリエを構えたのです。
 大正10年には東京美術学校の教授に就任し、「東洋のロダン」とも称されたほどで、高村光太郎と並んで日本美術界の重鎮となりました。昭和9年に、この自宅兼アトリエを改築して「朝倉彫塑塾」を開き、後進の育成にも力を尽くしました。
 朝倉の死後、遺族により朝倉彫塑館として公開されるようになったのは、昭和42年からのことだそうです。 
 朝倉彫塑館は、長らく保存修復工事をしていましたが、このたびリニューアルして4年半ぶりに開館したのです。
朝倉が自ら設計し、細部にまでこだわって工夫をこらした、和洋折衷の趣のあるつくりになっていて、建物自体が文化財であり、作品であるとも言えます。各部屋を見て回りながら、朝倉の作品と収蔵品を鑑賞することができます。小さな中庭は日本庭園になっており、屋上の庭園は塾だった時の必修科目「園芸」の活動の場でした。

 朝倉は猫好きで、多い時は15、6ひきの猫を飼っていたそうです。館内には猫に囲まれてご満悦の彼の写真もあります。猫を題材にした作品も多くありまが、作品についてはホームページで確認してください。朝倉彫塑館

 大分県出身の朝倉は、竹田高等小学校で学んだのですが、明治25年に瀧廉太郎と一年間だけ同窓だったことがありました。当時、廉太郎が13歳、朝倉は11歳だったそうです。
 その後、廉太郎は「荒城の月」や「花」を作曲し、ドイツにも留学することができましたが、23歳という若さで亡くなってしまいました。朝倉は、同窓だった縁で瀧廉太郎像を作っています。写真の像は大分市のものですが、上野公園の旧奏楽堂前にも朝倉文夫作の「瀧廉太郎像」があります。
 谷中は「地域猫」が多く棲む街であり、猫グッズのお店もいくつかあって、街ぐるみで猫を大事にしています。そういう訳で、このあたりは猫好き人が訪れる街にもなっています。

<谷中霊園>
 二つ目の目的は、谷中霊園に葬られている歴史的人物に会いに行くことです。ここには、朝倉文夫はもちろん、多くの著名人の墓地があります。一画は寛永寺墓苑にもなっていて、徳川慶喜家の霊廟もあります。
 谷中霊園に葬られている人をあげてみれば、植物学者の牧野富太郎、経済界の渋沢栄一、教育者の中村正直、毒婦とされた高橋お傳、横綱の出羽の海、俳優の長谷川一夫、文学者の佐々木信綱、筝曲家の宮城道雄、画家の鏑木清方、横山大観など多士済済です。
 洋楽関係でも上真行、島崎赤太郎、本居長世、そして武井守成もここに眠っています。「洋楽事始」に登場してもらった、これらの人々の墓所を確かめるというのが、私の二つ目の目的でした。
 念のため、これらの人々について簡単に解説しておきましょう。
上真行(うえさねみち)は、宮内省雅楽所の人で専門は笛だったと思います。音楽取調掛に入学してからは洋楽(ヴァイオリンだったか)を学びました。代表作品は、祝日大祭日唱歌の「一月一日」です。
 島崎赤太郎は、東京音楽学校に学んだオルガン奏者です。女性教師陣から権力を取り戻そうとする動き、幸田延の辞職騒動に当時の校長とともに一役かっています。代表作に山形県民歌「最上川」があります。
本居長世は、国学者本居宣長の子孫で、東京音楽学校で山田耕筰と同級生でした。作品には、「赤い靴」「七つの子」など多数の童謡があります。

 武井守成は、マンドリン・オーケストラの育成とクラシックギターの発展で大きな功績を残しました。マンドリンのための作品だけでなく、我が国のギター黎明期にその奏法を研究し、オリジナルの独奏曲を残しました。我が国クラシックギター界の最大の恩人です。
 武井家は、貴族院議員だった父のときから男爵を授けられていて、敷地も広く大変立派な墓標が造られています。墓標の傍らには、「オルケストラ・シンフォニカ・タケイ」と書かれた右のプレートが作られています。
 谷中霊園の墓は、「甲4-5」とか「乙10-9」などと区画と列が表示されているので、表示を目当てに案内図を見ながら歩けばよいのです。あらかじめ場所を調べておけば、それほど探し回らなくても分かるようになっています。
 ちなみに「甲4-5」は上真行、「乙10-9」は武井守成の墓のある場所です。そうはいっても、霊園全体が広大なので、上記の人たちの墓所をめぐり歩くと、正味一時間ぐらいかかってしまいました。
 谷中霊園の墓めぐりをしている人は、私だけではありません。樹木が豊富で、まあ散歩道としても気持ちよいからでしょうか。案内図を片手にカメラをぶら下げて何やら探し回っている人と何人か出会いました。
 また、地元の案内の方に連れられた団体さんもいて、慶喜さんの墓などは、この団体さんに紛れ込んでいると、解説を聞くことができます。

<谷中銀座から根津神社へ>

 墓地を後にして、もう一度朝倉彫塑館の前を通り、「夕やけだんだん」を降りて谷中銀座へ向かいました。ここは別に予定していたわけではないのですが、まあぶらぶら歩きながら根津方面に出ようと思いました。
 「夕やけだんだん」のあたりには、いつも猫さんたちがいるのですが、今日は日差しが強く、暑いくらいなので物陰に引っ込んでいるのでしょうか。でもいました。大あくびしているのが一匹だけいました。
 猫さんに別れを告げて、谷中銀座の通りに入ると、平日だというのにかなりの人出です。どうしてみなさん、こんなに自由な時間があるのでしょうね。まあ、人のことは言えませんが・・・

 すると、脇道から自転車に乗った二人の人物が、私の目の前に現れました。なんだか見たことがある人です。どうやらテレビカメラも来ているようで、何かの録画どりをしていたのでしょうか。
 狭い道に人がどんどん集まってきて、たちまち大勢の人に囲まれてしまいました。
 で、そうならないうちに写真を撮っておきました。たしか、この人たちは俳優の山口智充と佐野史郎という名前だったでしょうか。
 彼らがその後どうしたのか知りません。私は、俳優さんとかタレントさんとか芸人さんとかに関心が高い方ではないので、すぐにその場を離れてしまいました。もうお昼をまわってお腹もすいてきましたし・・・
 不忍通りに出て根津方面に歩きました。もう、かなり歩いていて上着を脱いでしまうほど気温も上がり、昼は冷たいそばを食べるぞと決めていました。しゃれたお店も多いこのあたりですが、そういうのには目もくれず、下町の普通のおソバやさんに入りました。
 ワサビを汁に溶かしこむのではなく、ソバ自体にワサビをつけて、しかしワサビに汁がつかないように、ソバだけを汁につけて啜り込むのが、うまいソバの食べ方なのです。これは、食通で知られた池波正太郎の食べ方ですが・・・。とにかく一休みです。

 大通りを渡って、右に行けば根津神社です。創建はヤマトタケルで、1900年も前のことだと伝えられています。
 江戸時代この地には、5代将軍綱吉の兄である綱重の屋敷があり、6代将軍家宣の生誕地となったので、徳川家の産土神とされました。
 現在は、つつじの名所として知られています。まだ3部咲きですが、すでにつつじ祭りが始まっていて、屋台も並んで大勢の人で賑わっています。
 ここは境内を通りぬけるだけにしました。根津神社を出て右に道を登って行くと、左側が東京大学農学部になります。その敷地の手前を入る小道があり、農学部の塀ぞいに進むと、敷地内に入れる扉があり、中には木陰の下を建物まで続く敷石が通っています。扉の傍らに呼び鈴がついていて、その脇に
「レストランにおいでの方は呼び鈴を押してください。お迎えにあがります。」
と書いてあります。どうやら、農学部のレストランがあって、一般の人でも入れるようです。今度来たときには、入ってみようかと思いました。
 この先を左折して進むと言問通りに出ます。信号を渡ったところに「弥生土器発掘ゆかりの地」の碑があります。このあたりが文京区弥生町で、明治17年にこの近く(東大の校内)で発掘されたので、その地名をとって「弥生土器」と名づけられたというわけです。
 碑と東大の間の道をだらだらと下っていくと、「東大弥生門」の向かい側に「弥生美術館・竹久夢二美術館」があります。ここが、今日の三番目の目的地なのです。

<弥生美術館・竹久夢二美術館>
 この私立美術館は、大正・昭和の時代に活躍した挿絵画家の作品が展示されています。
 もともとは、画家の高畠華宵(たかばたけかしょう)と親交があった弁護士、鹿野琢見という人物が自宅の一部を美術館にして、華宵の死後、託された作品を展示したものです。現在は、華宵だけでなく明治、大正、昭和の挿絵画家たちの作品が展示されており、その中には、あの「花嫁人形」を作詞した蕗谷虹児も入っています。
 また、かつて発行されていいたさまざまな雑誌、「コドモノクニ」「少女画報」「少女倶楽部」「少年倶楽部」など資料的な現物も展示されています。

 高畠華宵は、明治21年愛媛県宇和島の生まれです。「少女倶楽部」や「少女画報」などの雑誌に描いた、美少女や美少年の絵や「婦人画報」などの美人画が一世を風靡しました。
 大正から昭和にかけては、その独特の画風が人気を集め、竹久夢二と並ぶスター画家としてもてはやされました。 
 彼は、数多くの美しい少女、女性たちを描き続けましたが、自身は全く浮いた話はなく生涯独身でした。縁談を勧められると
「私には絵の中の女たちはいますから。」
と言ったのというのが、有名な話として残っています。
 彼の全盛期に鎌倉の稲村ケ崎に建てた、異国情緒あふれる豪邸は「華宵御殿」と言われ、ここに全国の女性たちから膨大なファンレターが送られたそうです。中には、「華宵御殿」見たさに、家出をした女性まで現れることもあったといいます。
 しかし、そうした人気もやがて衰え、戦後は失意の日々を送りました。晩年は生活が困窮して、老人福祉施設に入っていました。
 幼少時に華宵の絵が大好きだった弁護士の鹿野琢見が、たまたま華宵の現状を知ることになりました。すると、鹿野は華宵と文通を始め、次第に親交が深めていきました。そして華宵の死後、彼が自宅に弥生美術館が開館したのは、昭和59年のことでした。
 平成2年には、弥生美術館に併設して竹久夢二美術館も開館しています。鹿野琢見が収集した夢二の作品が三千点余りあり、こちらではこれを展示しています。夢二の美術館は、岡山、金沢、伊香保などにもありますが、ここの作品群もかなり充実しています。それほど広くないし、訪れる人も多くはないのでゆっくり鑑賞することができました。
入口の右側は、「港や」というカフェになっています。ここで、アイスコーヒーをいただいて一休みしました。美術館に入った人は、100円引きのサービスがあります。

<不忍池から上野へ>

 美術館を後にして、東大病院の入口を過ぎたところに稲荷神社があります。かつては、東大側の本郷台地を向ヶ岡、上野公園や谷中の上野台地を忍ヶ岡といい、その境目にこの神社は造られています。
 神社の傍らには、「弁慶鏡ヶ井戸」というのがあります。都落ちした義経一行が通りかかったとき、弁慶がこの井戸を見つけて、一行はのどを潤すことができたという記録があることから、この名前がつけられています。
 また、昭和20年の東京大空襲のときには、多くの被災者がこの井戸水によって救われたので、現在でも土地の人はこの井戸を大切にしています。

 不忍池に出て、左手に池を見ながら遊歩道を歩きます。この遊歩道は今の季節、まことに心地よいところです。たくさんの人がそぞろ歩きをしたり、ベンチに座って鳥たちを見ています。周囲をジョギングしている人もいますし、外国人の方もよく訪れる場所のようです。
 やがて弁天堂に出ます。ここを造ったのは天海僧正です。ここは、もともとは中の島だったので、当初は舟で渡ってお参りしたそうです。造営から数十年後に陸つづきなりました。
 京都の鬼門を守る比叡山延暦寺に対して、江戸の鬼門にあたる地に東叡山寛永寺を造営した際、不忍池を琵琶湖に見立てたので、竹生島の弁天堂に対する、不忍池の弁天堂が必要になったのです。

 ここをねぐらにしている猫たちもいるはずなのですが・・・やっぱりいましたいました。そう、この子に会ったのは何年ぶりでしょうか。ずいぶん年をとったようですが、栄養も足りていて元気そうです。いろんな人の世話になっているのでしょうね。人間に触られても全く平気です。
 隠れた目的として、猫さんとの出会いがあったのですが、今回は2匹だけでした。
 道路を渡って階段を登り、清水観音堂に出ればもうすぐ上野駅です。東京文化会館の横を通ろうとしたら、一人オーボエを吹いているおじさんがいました。上野公園には大道芸人がいることもありますが、路上で正統派の楽器を演奏している人もよく見かけます。やはり芸大が近いことと関係あるのでしょうか。
 上野駅公園口に着いたのは、午後2時52分でした。朝の日暮里駅が9時25分でしたので、約5時間半の散歩となりました。3時前の電車に乗れそうです。

カテゴリー: ちょこっと投稿 | コメントをどうぞ

ゆるやかな風  第18回 巡礼

この投稿はパスワードで保護されています。表示するにはパスワードを入力してください:


カテゴリー: ゆるやかな風 | コメントを読むにはパスワードを入力してください。

洋楽事始 第15回 「関係年表」

この投稿はパスワードで保護されています。表示するにはパスワードを入力してください:


カテゴリー: 洋楽事始 | コメントを読むにはパスワードを入力してください。

圧倒的富士山と金時娘さんと金時山はいかがですか?

7代新保

 
 「まーさかり担いだ金太郎~~」の金時山です。金時神社入り口のバス停で降り、参道を入っていくと左手に大きな鉄のマサカリがありました。お参りをしたりしていざ金時山へ出発。岩や木の根などの多い急坂を登ります。
 3月初め湯河原の幕山公園で梅見をしがてら幕山(626m)に登った時は、くの字に折れ曲がった急坂続きで息が切れ、8合目あたりで貧血ダウン寸前!急きょ公園で仕入れ上で食べようと思っていた大きなふかし饅頭をほおばって難を脱出し、どうにか頂上まで行ったのですが。今回の金時さんはそれより高度はあっても、途中大涌谷の湯けむりや仙石原一帯が見渡せる眺めのよい所があったり、傾斜の緩い部分があったりで、さほど疲れずに約一時間半(休憩を含む)。突然視界が開けたと思ったら
「あっ!頂上だ!バンザーイ!!」
「おー!!!」
なんと、目の前に圧倒的な大きさで富士山が急にドーンと飛び込んで来ました。左右に長い裾野を引きずって、邪魔するものは全くありません。御殿場の街の向こうに悠然とくっきり立ち上がった美しい見事な姿に息を飲みます。当然富士山が見えるという事で登って来たのですが、想像以上の見晴らしに、下山してから仙石原で昼食にするという予定は吹き飛んでしまいました。この姿を前にすぐ降りるなんて勿体なくて気持ちも体も動きません。やっぱり山はおにぎりが欠かせませんね。ちょっと早めですが「金時娘の茶屋」でお昼にすることにしました。
 小屋の中は、お客さんで大賑わい。カレーうどんを待っている間天井を見ると、数字札の横にずらーっとものすごい数の名前の札が何列にもなって一面に下がっています。何かと思って見ていると金時山の登頂記録みたいで、最高は3700回。流石に名札は一人でしたが、それにしても1日何回登っても1回と数えるようなので、番付から行くとかなり低い100回でも凄い事ですよね。また、壁には有名人との写真やサイン、テレビ番組で紹介された等々の説明が、所狭しと張ってありました。そんなに有名な山だったんだんですね。
 車も通らない山の上で、カレーうどんを頂くなんて思いもしませんでしたし、ちょっと流儀に反しますが、茶屋があるので良しとしましょう。じゃがいも人参等々ちゃんと入っていて麺も美味しく、味は程よい甘口カレーだったので、スープまで全部飲んでしまいました。ごちそうさま。
 少し前、金時山の高さが1213mから1212mに変更になるとニュースや新聞で報じられた時、長年頂上で茶屋を開いているという方がテレビの電話インタビューに
「ショックで今日は休みました。お土産などに全部1213mと入っているし…どうしたらいいのか?」
と応えていましたが、帰りがけお勘定を取りしきっている女性を見て、
「あっ、あのインタビューの時の声の方だ。」
ふと見ると、三つ編みのお下げ髪が両耳の後ろから出ています。
「ははあぁーなる程成程。この方が看板娘の金時娘さんなんだ!」
妙に合点してしまいました。ショックから立ち直られたんでしょうか、元気いっぱいに注文を受けていました。厨房では息子さんとお孫さん(?)とが、大忙しで動いています。思い切ってちょっと金時娘さんとお話ししたところ、このお年でも毎日下から登って来られるのだそうです!こっちはフーフーやっと登って来たのに。流石金時山で鍛えている金時娘さんは凄い\(◎o◎)/!と思いきや、以下に掲載してある資料を見て、御年なんと80才と分かりもっとビックリ\(◎o◎)/!
 ちなみに、1213mの表示はそのままになっていました。
名残惜しいけれど雄姿の富士山とは1時間でお別れし、これまた1時間であっという間に仙石原まで下山。帰途はこの仙石原から新宿まで高速バスが有り、居眠りしながら快適に2時間。世の中とても便利なんだと感心してしいました。

4月初め箱根湯本も宮の下も東京近郊と同様サクラが満開でした。 かの富士屋ホテル(宿泊はしてませんが)

今回のルート
・新宿=小田急=箱根湯本―散策―箱根登山鉄道=宮ノ下-散策-泊
・バス=金時神社入り口―金時山―仙石原=高速バスで2時間=新宿
金時山へは幾つものルートがありますが、足柄の方からだと、急な梯子が10か所もあるそうです。

以下、wikipediaより。
金時山名の由来

明神ヶ岳から見た金時山。
金時山は粘性の高い金時山溶岩から構成されており、他の箱根火山外輪山とは異なる地質ため、山頂付近の傾斜が非常に強く、遠くから見るとひときわ高い峰が天を突いているように見える。この姿が、顔から急に突き出たイノシシの鼻のように見えるため、かつては猪鼻嶽(いのはなだけ)や猪鼻ヶ嶽(いのはながたけ)と呼ばれていたそうです。

足柄山地・矢倉岳から見た金時山。
金時山から足柄峠にかけての山々周辺が
足柄山と呼ばれるそうです。


江戸時代に、坂田金時(坂田公時とも)の故郷が足柄山であるとした「金太郎伝説」ができ、この頃から金時山(別表記:公時山、きんときやま)と呼ばれるようになり、その後、1900年(明治33年)に童謡「金太郎」がつくられ、広く知れ渡るようになったということです。

金時茶屋(金時娘の茶屋)

金時茶屋(きんときちゃや)は金時山山頂にある山小屋です。食事などを提供する休憩小屋であり、宿泊はできません。小見山妙子さんが1947年(昭和22年)の春、14歳の時から65年以上切り盛りしており、金時娘の茶屋(きんときむすめのちゃや)の愛称で親しまれています。小見山妙子さんの父にあたる故・小見山正さんは新田次郎の著書「強力伝」(北アルプス・白馬岳山頂へ50貫(約190kg)もの巨石を背負って運ぶ話)の主人公である小宮正作のモデルとなった人物だそうです。この横に有料トイレもあります。

カテゴリー: その他 | コメントをどうぞ

ちょこっと桜情報2

7代 豊岡

4/11(金)に徒然草で話題の仁和寺に行ってきました。
前日たまたま京都のホテルで見ていたNHKで仁和寺の御室桜の事をやっており、急遽日程を変更し仁和寺に行くことにしました。
テレビの影響はすごいもので、パワーあるおじさん・おばさん達で大変な混み様でした。京都全体の桜が葉桜になりつつある中、ここの桜はほぼ満開状態でした。市内の桜より1週間~10日位遅く咲くようです。久しぶりに満開の桜を満喫したという感じです。
桜というと見上げるというイメージですが、ここの桜はそっと囁きかけたくなるような距離感というのでしょうか、とにかく花びらが身近に感じられます。それもその筈、幹がなく直接土から枝が張っているような桜で、初めて目にする桜でした。樹高も2~3mぐらいしかありません。理由はよく解らないようですが、粘土質の地質で充分栄養分が木に伝わらないためという説もあるようです。

カテゴリー: ちょこっと投稿 | コメントをどうぞ

洋楽事始 第14回 「山田耕筰 後編」

この投稿はパスワードで保護されています。表示するにはパスワードを入力してください:


カテゴリー: 洋楽事始 | コメントを読むにはパスワードを入力してください。

目の前の桜がもうすぐ満開に・・・

3月31日 ギター仙人

 
 我が家の目の前に大きなソメイヨシノが一本あります。ここのところの温かさで、満開はもうすぐです。この桜の木は、ここに引っ越したときからあるのですが、毎年この時期になると居ながらにお花見ができるのです。
 ソメイヨシノが散る頃には、隣にある2本の八重桜が開き、我が家のお花見は4月半ばぐらいまで楽しめます。しかし、これが過ぎると後は大変です。桜吹雪といえば言葉ではきれいそうですが、あまりにも大量になると、家の狭い敷地に積もってしまいます。掃いても掃いても、次から次へと天から落ちてきます。でも、春が来た~春が来た~とどんどん花が開いてくるのは、すばらしいものです。

 また、この木にはたくさんの野鳥がやってきます。ヒヨドリ、ムクドリ、メジロ、ウグイス、コゲラ、シジュウカラ、カッコウ、コジュケイなどなど・・・いろいろな鳥の鳴き声が聞こえてくるのです。畑は、近所の人たちの家庭菜園になっていて、天気のよい日は早朝から作業をしている人がいます。鳥さんたちは、畑から人がいなくなると、ソレっとばかりに降り立ち、何かをさかんについばんでいることがよくあります。さっき蒔いた種をほじって食べているのでしょうか。

 家の周辺には、ほかにも春を告げる植物がいろいろとあります。今日は、朝からよく晴れて雲一つない青空でした。
 暖かい日差しに誘われて、周辺のお花などを撮ってみました。



 過ごしやすいとてもよい季節になってきました。ごく近くにもこんなに自然がいっぱいあります。ありがたいことです。

カテゴリー: その他 | コメントをどうぞ

ちょこっと桜情報

7代 豊岡

 3/30(日)は雨で荒れ模様、今週末まで桜は保つか?ということで、3/29(土)に買物帰りに目黒川沿いに桜を見に行ってきました。まだ五分咲きというところでしょうか。それでも暖かい陽気に誘われたのか人でごった返していました。東急東横線中目黒駅から東急田園都市線池尻大橋駅までの約1.5kmの目黒川両岸に桜が連なっています。
ここは他の桜の見所と違い、座って宴会をするようなスペースがほとんどありません。それでも飲みたいのでしょうね?缶ビールを、中にはワイングラスを片手に飲みながら散策している人もいました。これが人気の町「中目黒」の桜見物の流儀というのでしょうか?
今週の中頃までが見頃かも知れません。お時間に余裕のある人は是非一度行ってみては如何でしょうか。中目黒は意外と行きやすいと思います。日比谷線の終点駅ですし、副都心線に乗り入れている私鉄では一本で行けます。東横線に乗り換える渋谷には山手線の他、埼京線・新宿湘南ライン・井の頭線・銀座線・半蔵門線などで行くことができます。
8年前に携帯で撮った写真であまり写りがよくありませんが、添付します。

カテゴリー: ちょこっと投稿 | コメントをどうぞ

ちょこっと雑学2

ちょこっと雑学
                      7代 新保
今回は、3、4択です。

Q1:新宿区歌舞伎町は、歌舞伎座が無いのに何故歌舞伎町と言うのでしょう?
 
 
  1、戦前には歌舞伎座があったから。   
  2、建てる計画があったから。
  3、歌舞伎発祥の地だから。
  4、冠木(かぶき)と言う地名だったから。

Q2:水だと大ジョッキー1杯はとても飲めないのに、ビールだと何杯でも飲めるのは何故でしょう?
  

  1、アルコール類は、腸壁だけでなく胃壁からも水分が吸収
   されるから。
  2、アルコール類は、腸壁からの吸収を促進するから。
  3、実は水も同じように飲める。


Q3:上野の西郷さんは、何故犬を連れているのでしょう? 

  1、一緒に散歩している。
  2、一緒に狩りをしている。
  3、一緒に旅をしている。


A1 歌舞伎座は、1889年木挽町(現在東銀座)に建てられましたが、空襲で焼失。戦後の復興計画の中で、歌舞伎座を新宿に移し、それを中心に新宿東口を一大文化地域にしようという構想が持ち上がりました。そのため1948年、一足先に歌舞伎町という地名が誕生したとの事です。ところが、金融措置や建設制限に関する法令のため建設計画が頓挫してしまい、歌舞伎座はできないのに地名だけは残ったのだそうです。従って正解は、でした。
 先走りは良いのか悪いのか?名前は歌舞伎町でも文化的内容がかなり違ってしまったものですね(@_@;)

A2 水は腸に行ってから吸収されるのに対し、アルコールは胃壁からも吸収されるのだそうです。また、アルコールには利尿作用があるため、水分を尿としてどんどん排出してまうので、水を飲んだ時に比べ体内の水分量が減り、更に飲めるのだとか。従って正解は、でした。
 飲めるからと言って、誘惑のままに飲み過ぎないようご用心ください(*^^)v

A3 この犬は、隆盛の愛犬で「ツン」と言う雌の土佐犬です。西郷さんの帯の間をよく見ると、脇差と一緒に束ねた紐が挟まっていますが、これはウサギをとるための罠だそうで、土佐犬はなんとウサギ狩りを得意とする猟犬なのでした。よって、この銅像は愛犬と狩りに向かう姿を現しているのだそうです。
 西郷さんの銅像は日本彫刻界の巨匠高村光雲が、愛犬は後藤貞行が作者という事です。従って正解は、でした。
この話は、何処かで聞いたことがあるような…ご存知の方が多かったかも…(^^;

※参考「雑学」本等。

カテゴリー: ちょこっと投稿 | コメントをどうぞ

ちょこっと雑学

7代 新保

Q: 相撲放送で、勝った力士がインタビューの時に、
 ハーハー息せき切って話しているのは何故でしょうか?


A: それは、インタビュールームまで猛スピードで走ってくるからだそうです。相撲は生放送なので、次の取り組みが迫っています。その合間を縫ってインタビューがあるので、取り組みに全力を出し切っている上に走らなければならないお相撲さんも大変ですね。せっかくの勝利インタビューなのに「ハーハー。」して、殆ど話せないのは、何ともお気の毒です。

Q: カラスが煙突の上にとまっているのはなぜ?


A:くたびれて休んでいるのでも、獲物を探しているのでもありません。実際にカラスに聞いたわけではないのですが、煙突から出る煙で、羽を乾かしたり、羽に住む寄生虫を退治していると考えられているそうです。

Q: 「となりのトトロ」名前の由来は?


A: 監督の宮崎駿さんは所沢にお住まいなのですが、お孫さんは小さい頃「ところざわ」とはっきり発音することができず「ととろ」と話していたそうです。この漫画の舞台のモデルとされる狭山丘陵は所沢の隣だったので、「トトロの隣」から「となりのトトロ」になったという事です。
※上記は、狭山丘陵「八国山緑地」をハイキングしていた時、地元の方に伺ったお話しです。
 
 余談ですが、2月の初め散策に行こうと「新秋津」で降り、乗換えのため「秋津」に向かって歩いていると、行きかう朝の人混みの中、前から来る男女の二人連れがパット目に入ってきました。随分年齢差があるカップル?女性はピカピカの若者なのに、お相手は白髭のお・・さん。近づいてくると、あれ!?どこかで見たお顔!これは正しく「宮崎駿監督!」髭と言い、背格好体格と言い間違いありません!一瞬話し掛けてしまおうか?なんて思ったのですがやめました。とても楽しげに話していましたし、通勤途中お邪魔ですし、実際話すこともないですし…。あの方が、もしかしたら「トトロ」のお孫さんだったのかな?成程、所沢ならここで会うのも然り!等々考えながら、ハイキング集合場所の飯能駅へ。
 改札を出てビックリ仰天玉手箱!受付がありません!ハイキングしそうな人影も全く見当たらず閑散としています。おかしい…。案内所で聞いてビックリ仰天ガックリ玉手箱!なんと、なんと、ハイキングは翌日だったのです!
そんなぁー。宮崎駿監督に会えたことは、ラッキーだったけど($・・)/~~~
 実は、この失敗は「脳の若返りにちょこっと音読のお勧め(面談の日にちを間違えた内容)」を投稿した次の日のことだったのです。またやってしまった\(◎o◎)/!

カテゴリー: ちょこっと投稿 | コメントをどうぞ